私的冬の台北
そろそろ冬が近くなってくる。就職して間もない頃、台湾の詳しい歴史、ましてや二・二八事件の知識もないまま、侯孝賢の悲情城市という映画を映画館で一人で見た。映像美と辛樹芬の演技が印象に残ったのだが、正直、映画自体は当時の私には難解すぎた。
その後1997年師走、母を伴い台湾に始めて旅行した。台湾社会の成り立ち・そこに住んでいる人たちについて詳しく勉強したわけではなく、気軽な観光旅行だったのだが、私はそこで頭をガツンとやられたような経験をする。当時まだMRTと呼ばれる地下鉄はなく、観光スポットを周るのはタクシーと徒歩。冬の雨がそぼ降る旧日本総督府近くで、目的地の確認のため地図を見ていると、傘をさした清楚な出で立ちの台湾の若い女性に声をかけられた。大変美しい日本語で、「どちらへお越しですか?道は分かりますか?」と。
以前日本の植民地だったことから年配の方が日本語を話すということは頭にあったが、若い人が、英語ではなく大して役にも立ちそうもない日本語(と当時は勝手に考えていた)を綺麗に操り、ご親切に観光客に声までかけてくれる。その場は無難にお礼を言ってやり過ごしたが、私には衝撃だった。そして自分が北京語や台湾語も話せず、大してその社会について勉強もせずうろうろしていることに恥ずかしい思いがした。
残念ながら日々の生活にあくせくしているうちに、あれから20年以上が経ってしまったが、2年前の2017年、家族旅行で台湾を訪れる機会に恵まれた。今度は台湾について少しでも知ってから訪れたいと、台湾の近代史について調べ、改めてあの叙事映画「悲情城市」をDVDで鑑賞してから訪れた。日本の植民地支配から外省人・本省人の対立というあの映画に描かれた混乱の時代から既に70年、前回の訪問から既に20年経った台湾。ホテルの人に20年ぶりだと話したら、当時から相当変わっているだろうと言われた。
台湾で話した人は、大陸系の方たちよりも物腰がとても柔らかい印象を受ける。日本統治の影響とは考えにくい。地政学的に生き残る術として形作られた国民性か、それともアングロサクソン人がmajorityの国に長く住んでいるために、私の感性が完全に狂ってしまったのだろうか?
中華圏というと、私には極彩色という先入観がある。実際私の出身地近くの横浜中華街に行けば、町の装飾は到ってカラフルだ。だが、台湾はどこか若干淡白な印象を受ける。
日本人観光客なら一度は訪れる龍山寺。装飾は中華のそれだが、色彩は思いの他渋みがかっている。例えばZeissのレンズならば、また若干違った印象に撮れる気もするが。
予習をせずに街歩きをするのは、どこであっても楽しい。台北での朝食はほぼ毎日、焼餅夾蛋(台湾版パンケーキ)と鹹豆漿(豆乳ベースのスープ)で朝食を済ませる。大体のエリアだけ決めたらMRTで移動し、後は店を覗きながらひたすら街を歩く。
中山駅から半時間ほどの道のりをいて行くと、雑貨や食料を売る店が所狭しとひしめき合っている迪化街に辿り着く。日本統治時代に整備され空襲を免れた石造りの建物の町並みに、東京下町の河童橋かアメ横のような雰囲気の店が所狭しと並ぶ。
街歩きの際は、まずガイドブックは見ない。そのほうが目にするものは新鮮だ。たまたま入ったカフェ(走味大稻埕 )は営業を始めたばかりの店だったためか、空いていて店員さんがハーブの選び方を懇切丁寧に教えてくれた。歴史のある街で連綿と続いてきた生活に、思いを馳せる一時...。
永康街という街は、マンゴーのシャーベットを売る有名な店があったりして観光客で賑やかだ。その飲食店で賑やかな界隈から少し歩くと、日本の下町のような雰囲気を色濃く残している地域がある。季節は冬だが、やはり南方。日差しの柔らかい秋の午後の東京を歩いているような印象を受ける。
若者のファッションの街、忠孝敦化の東区にて(娘が買物をした)。看板広告近くをアンマッチングな人でも通ればよいのだが、昼時で時間が早すぎるのか、人通りはない。数ブロック歩くと、路地裏でおじさんが一本一本皮から豚の毛を抜いていた。
こちらは雙連朝市。写真をアップできないような蛙とか動物の内臓とか、台北の人の生活の一旦が垣間見られる。撮影はFujifilmのX100Tを使用。写真の緻密さというか張りが今一つ足りない。
20年ぶりの台北は、ちょっと小ぎれいになって垢抜けしていて、人々もどこか自分達のことでせわしそうに見えた。観光客には目をくれる風もない。でも、実際に話した人達は物腰が柔らかい。基本的に礼儀正しい人達なのであろう。
実は、あの映画の舞台の九份も訪れた。悲情城市のヒットの後は現地観光客の人気が増し、さらに現在では千と千尋のモデルとなった街(ジブリは否定)として日本人観光客が押し寄せる。そちらについてはまた機会を改めて写真をまとめようと思う。